ついに・・・ついに念願だった「洗礼」を、9月12日に受けてきました。今もまだ、あの日の感動が、この胸に、くっきり鮮明に残っています。
私が洗礼を受けたいと思い始めたのは、神様を知ってから、そんなに日も経たないうちから、そう願っていました。今日の記事は少し長くなってしまうかもしれませんが、どうぞ、これまでのいきさつ、当日の感激を、聞いてやってください♪
先日もお話したように、自慢できることじゃないんですが、私はバツイチです(笑)嫁ぎ先で出来たお友達がクリスチャンだったことから、神様を知ることとなり、離婚して、こちらに来てから教会へ行くことになりました。
まさしく神様の愛というものは何よりも深いものです。神様は、私にとって何もかも必要なものをお与えくださいます。どこの教会へ行ったらいいのかと、迷っていたとき、ネットで調べたら、なんと!家から歩いて2分かそこらに教会があったんです。
どういうものなのだろうと、教会へ初めて足を運んだ日は、平日(うちの教会は人数が少ないので日曜、朝の礼拝しかありません)なのにもかかわらず、たまたま教会のお掃除に来ていたOさんとお会いでき、日曜の礼拝に参加することになったのです。(たまたまというものではなく、神様のお導きなんですが。)
それから、すぐに「悪性リンパ腫」という白血病と同じ血液細胞のガンを発病し、抗癌剤と放射線の辛い治療のため、入院していた病院は、なんと、これまた家から歩いて5分ほどの距離。、退院後も毎日、放射線を受けに病院へ通いましたが、放射線も、副作用があって、車の運転はダメだし、吐き気を催したりしますが、大変楽に通うことができました。
血液細胞のガンというものは怖いもので、全身に血管があるため、全身に転移するのがとても早いんです。たいてい、気づいたときには手遅れだったり、何箇所にも転移があったりして、早くて半年ほどの大変な治療になるのがほとんどです。
ですが、私の場合、普通の症状と違い患部に激痛があったため、発見が早くでき、なんと!転移がひとつもなく最短コースの3ヶ月という治療期間で済んだのです。
神様は、病気になる私の為に、全てのよいものをお与えくださっていたのです。
病気になったことは、今までの罪からの罰だと思う気持ちが半分、それ以上に人の弱さや強さ、優しさや醜さを知ることが出来た経験としての神様の御業が、私に下られた贈り物だと思う気持ちが半分でした。
神様が言われる、イエス様が言われる罪とは、神を忘れ、神の元を離れてしまうことです。今まで神を恐れず、神様を忘れ、神の元を離れて、人生、一度きりだから楽しまなきゃ損だと、人を押しのけ、自分さえよければいいと、好き勝手していた私への罰でもあり、そして、人に優しくする心を学ばせてくださり、悔い改めるチャンスを下さった、神様の御業だと思っています。
どちらにしても、
神様は私にとって必要なものだけをお与えくださる、その深い愛にとても感激しました。
あなたも気づいているでしょうか。神様は、あなたにとって、必要なものだけをお与えになるのです。それをあなたは不必要なものとして受け取るか、必要なものだと感謝するか、それだけのことなのですよ。
入院中、弟夫婦には生後半年の子供がおり、病院を出入りすると、いろんな病気がうつってしまうといけないので( 注 : ガンは感染しません )なかなかお見舞いには来れなかったのですが、実の弟よりも多くお見舞いに来てくださったのが、教会のOさん(↑の人です♪)とMさんでした。しょっちゅう見舞いに来てくださっては、ガンには笑うのがいいから。と沢山笑わせてくださいました♪(OさんとMさんには、教父母になっていただきました♪)
実は、これまで誰一人として人に言ったことはないですが、当初は個室だったんです。個室はどうしても暗くなりがちだったので、頼み込んで大部屋に入れてもらったのですが、28歳にして、治療の結果もむなしく、死んでしまうのではないかと、夜になって部屋を抜け出し、廊下で祈り、泣いたこともありました。
でも、教会のみなさんや家族、お友達のお見舞い、携帯へのメールやお手紙もしょっちゅうもらい、みんなが励ましてくださったのです。
いとこのお姉ちゃんも、しょっちゅう見舞いに来てくれて、本当に嬉しかったです。
あれから約1年が経とうとしていますが、今のところ再発もなく、体力と免疫回復も順調に取り戻し、少しずつ以前と同じ体に戻ってこれています。退院して、教会へ行きたくて仕方がなくて、やっと少しずつ長い間歩いたり、立っていられるようになったころ、教会へ復帰することになりました。それが、なんとイースターの日だったのです。しかも、Oさんも病気をなさって教会へ復帰されたのがイースターの日。また、Oさんの洗礼日は、9月11日と私の前日でした。(ついでに11日は私の弟の誕生日♪)神様のお導きですね。感動しました。
そして、12日、日曜の夕方。いつもの教会の方々と、遠方の方々もわざわざお祝いにお越しくださり、みなさんとの礼拝と共に、洗礼を受けてまいりました。ただひたすら、ずっと感激で胸がいっぱいになってしまい、ボロボロに泣いてしまいました。それは、私だけでなく、教会の皆さんも同じで、みなさん目に涙をたくさん浮かべ、泣きながらおめでとう!と心から喜んでくださったのです。
また、この日の礼拝の聖書日課は・・・驚いたことに
先日の一番下に赤字で書いた、新約聖書の「ルカによる福音書15:1~10の見失った羊・無くした銀貨」だったのです!!みんながやはり神様のお導きだと、とても驚いていました。
これは、沢山ある大切な物の中から、1つだけ失ったとしたら、必死になって探し求め、それが見つかった時の喜びはより大きなものである。という、探し求める人が神様で、元の場所を勝手に離れていき、さ迷うものが私たちであるという、イエス様のたとえ話ですが、聖書日課とは、あの分厚い聖書の一節が、毎年一日一日と割り振られていて、みんなで読む日課で、しかも、それがA年~C年と三タイプあり、この日に当たる確立は相当低いものだそうです。
私が洗礼を受けたまさにその日、神様の元を離れ、好き勝手していた私を見つけられ、やっと自分のもとへと戻して喜んでくださった、その日だったのです。
しかも、大事なものが見つかったときには、神様はみんなを呼び集め、みなと共に喜びを共にして欲しいと願われるのです。
みなさんも、無くし物が見つかったとき、お父さんやお母さん、兄弟や友達に、あった!あった!あったよ~!あぁ~よかった~♪と喜びを伝えにいきますよね。それと同じだと言われるのです。洗礼を受けたあの日、私が神の元へ戻ったことを、神様も、兄弟も、みな共に心から大いに喜んでくださったのです。
まさに、神様が私を見つけてくださり、偶然とはいえない神様のお導きによって、12日、神様の元へと帰ることができたのです。
また、みなさんから、ステキなお祝いの贈り物も頂きました♪
そして、洗礼のあとは、みんなでお祝いをあげてくださいました。お寿司だの以前、風邪で食べられなかった
手作り水まんじゅうだの、フルーツポンチだのと、みんなで1つのテーブルを囲み、豪華なお夕食は、とっぷりと夜になるまで、笑いっぱなしで賑やかになりました。Mさん恒例のマジックショーもあって、本当に本当に楽しくて、ステキな、感動の一日となりました。(*^^*)
早速、ドライフラワーにするために、つるしておきました♪いつまでも、この日は忘れられない、ステキな日となるでしょう。主に感謝。