念願の
洗礼を受けた9月12日以来で、とってもお久しぶりになってしまいました。牧師様は「神様の言葉はみんなのものです。説教もすべて、沢山の方に広めた方がいい。」と背中を押してもらって、迷いに迷って書こう・・・と始めたコンテンツなのに( ̄ー ̄; ヒヤリ
みなさんは、ご自分を正しい人だと思ってますか。それとも罪人だと思いますか。
イエス様は、何度も何度も悔い改めない欲深い人間に「隣人を自分のように愛しなさい」と言われ続けました。しかし、神様のように完璧でない、罪人である私たち人間は、いつも人を横目で見、上に立とうとし、よからぬ思いで人をけなし見下すことばかりを何度も何度も繰り返しています。
私も、正直どうしても好きになれない人が2人ほどいます。
犬と人を愛せなくて、犬や人の命を、人からすごい!と言われたいがため、自分が有名になるための、自分が自慢したいための道具にしている人たちです。愛がないので、自分を上げてくれる犬や人だけをエコヒイキするのは当然。自分の理想にならないと、捨ててしまうのも当然。また、そんな人のそばにいれば、自分も有名になれる・・・と心では悪態ついていても相手が喜ぶ言葉で必死に媚びている人です。
しかし、そんな人を許しなさい。自分のように愛しなさい、愛を持って互いに仕えなさい。とイエス様は言われるのです。イエス様のこの教えは、私たち人間すべてに必要な教えです。
今もそう変わりない時代だとは思いますが、イエス様の時代では、徴税人やファリサイ派、律法学者たちは人々から大変嫌われてました。徴税人は橋を渡るにしても貧しい人々からなけなしのお金を多く徴収し、自分たちの懐へ納めていましたし、ファリサイ派や律法学者たちは、神様と人間との契約である律法を研究する反面、それに囚われすぎて自分たちに甘く、他人に厳しく、罪人(律法を守れない人たちのこと)や病人、貧しい人たちを極端に嫌い、自分たち
だけが神様にかなう正しい人だと主張していたからです。
今の時代と同じで、この人たちは、人の上に立つ人たちです。が、イエス様は、そんな人たちよりも心の貧しい罪人たちのために、神と人との契約(古い契約・旧約聖書)を完全にするために私は来た。と食事を一緒になさったのです。自分たちこそ正しいと思っていたファリサイ派や律法学者たちは、自分たちより罪人を愛し、律法を乱すイエス様がいると、自分たちの地位が危ういと考え、イエス様を何とか殺したいと、念願かなって殺してしまいます。
果たして、このファリサイ派や律法学者たちは正しい人たちなのでしょうか。
もちろん、正しいことをしたとは思えません。自分たちの欲のために、人・・・人であり神であるイエス様を殺したのですから。しかし、ファリサイ派や、律法学者たちのすることは真似しなさいと人々に言っておられるのです。他人に厳しく取り締まりすぎている人たちですが、神を愛し、律法を守っていることはよいことだと言われています。
ある律法学者が神殿で私こそは神にかなうものです。あなたを賛美しますと叫んでいました。反対に隅の方である徴税人が私は神の前に立つことも出来ぬ罪深いものです。お許しください。と拳で胸を打ちながら祈っていました。
さて、この2人のどちらが正しいもので、どちらが罪人なのでしょうか。
そして・・・どちらが正しい者で、どちらが罪人か判断した、あなたのその判断は・・・果たして正しいものなのでしょうか。
そうなんです。私が嫌いな人がしていることは正しいか正しくないか、それは分かりませんが、私は間違いであると判断し、結果、嫌いな人間と思っています。しかし、イエス様は人を許し、隣人を自分のように愛し、互いに愛を持って仕えなさい。
他人が正しいか間違っているかを決めるのは人ではないと言われるのです。
イエス様は私に言われます。
おまえは、正しい人間であるか?おまえは、罪を犯したことはないのか?おまえは、罪人ではないのか?おまえは、人に正しいことと間違っていることを教えられるほどの区別を持っているのか?人が人を裁くな。神様だけが人を裁かれるのだ。・・・と。
自分たちこそは正しいものだと主張する人たちに殺されると知っていても、イエス様は彼らをお許しになっています。そればかりか、最後の祈りで彼らは自分でさえも何をしているのか分かっていないのです。彼らをお許しください。と祈っておられるのです。
イエス様の教えは、すべて私たち人間に必要な教えです。人を許し、互いを愛して仕えることは、私たちが共に生きるうえで必要なこと、そのものではないでしょうか。誰かを悪い人だ!と思ってしまうのは、確かによくないことをしたからでしょうが、それを許さず生きるチャンスを奪い取ってしまう裁く権利は、私たち人間同士には持っていないということなのです。